抑も日光権現は下野国の鎮守なり。
昔、赤城大明神と后(中禅寺湖)を争ふ事、また唵佐羅麼の語の事、遥かに遠き昔なり。
二荒山が本地垂迹を顕はしたるは、人皇四十九代光仁天皇の末より桓武天皇の始め、天応二年より延暦初年の頃なり。勝道上人が山に登り、一大伽藍を建立せられたり。今の日光山なり。
日光山には男体と女体あり。男体の本地は千手観音なり。女体の本地は阿弥陀如来なり。本地垂迹の理を明らかにし、神仏一体の証なり。山中に霊験多く、衆生を済度する。
諏訪縁起に連なる母の示現として、阿弥陀如来の誓願により顕現す。
日光権現は下野国の鎮守である。遠い昔、赤城大明神との沼(中禅寺湖)をめぐる争いがあった。天応二年(782年)から延暦初年にかけて、勝道上人が二荒山に登り一大伽藍を建立したのが今の日光山の起源である。日光山には男体(男体山)と女体(女峰山)があり、男体の本地は千手観音、女体の本地は阿弥陀如来である。巻第十「諏訪縁起事」では甲賀三郎の母が女体権現(阿弥陀如来の垂迹)として示現するという連関が示される。
「赤城大明神と后(沼)を争ふ」という記述は、中禅寺湖をめぐる神々の争奪譚の痕跡である。赤城大明神事(巻第七)でも蛇体による争いが描かれており、日光・赤城という下野・上野の二大山岳霊場が対峙する構造を持つ。湖という「境界の水」を争う構造は、縄文以来の山岳水神信仰の古層と結びついている。
「唵佐羅麼(おんさらま)」は陀羅尼の一節とも小野猿丸に関わる古伝とも解されるが、現段階では確定的な解釈はなく、日光信仰の古層にある何らかの呪的伝承の残滓と見るのが妥当である。
勝道上人(735〜817)は下野国出身の山岳修行者で、延暦三年(784年)に二荒山(男体山)頂上への登頂を果たし、四本龍寺(後の輪王寺)を開いた。『神道集』では天応・延暦年間という簡略化がなされているが、これは唱導文学としての縁起整理による。
女体の本地を阿弥陀如来とする点は巻第十の諏訪縁起と深く連動する。甲賀三郎の母が日光の女体権現として顕現するという構造は、子が神となり(諏訪大明神)、母もまた別の霊場で神となるという、『神道集』固有の「家族の神格化」の連鎖を東国の山岳信仰に展開させたものである。
| 御神体・祭神 | 役割 | 本地仏 |
|---|---|---|
| 大己貴命(男体山) | 日光権現・男体 | 千手観音 |
| 田心姫命(女峰山) | 日光権現・女体 | 阿弥陀如来 |
| 味耜高彦根命(太郎山) | 日光権現・太郎山 | (本経中明示なし) |
巻第十「諏訪縁起事(甲賀三郎伝説)」では、蛇身となった甲賀三郎が地底を彷徨ったのち諏訪大明神として顕現する。この物語の中で、三郎の母は日光権現の女体として示現するとされる。女体の本地が阿弥陀如来であることは、阿弥陀の本願(衆生済度・極楽往生)による母の示現という意味を帯びる。子(諏訪大明神)・母(日光女体権現)が東国の二つの山岳霊場を占めるという家族神格化の連鎖は、『神道集』が単なる各社縁起の羅列ではなく、東国神仏習合の宇宙論的体系化を意図していたことを示している。