渡邉 朱鷺
第一篇

戦国期から近世初頭の渡邉家

朱印状二点と長男分家の意味
五十嵐こと 初稿 2026年5月1日

はじめに

本稿は、原宿渡邉家連作の第一篇として、家伝の真実性を支える起点となる事実を論じる。すなわち、戦国期に文書を残せた家の稀少性、天文十七年・天正六年の朱印状二点が示す家の地位、そして元和元年の長男分家とお万の方来訪の意味である。

本稿が示すのは、原宿渡邉家が戦国期に新興した家ではなく、それ以前から地域に根を張ってきた家であった蓋然性、そして徳川家康がこの家を異例の処遇で扱ったことの意味である。

一 戦国期に文書を残せた家の稀少性

日本史において、戦国期の地方の家から、家自身に伝来した文書群を一定規模で現存させている例は、極めて稀である。

理由は明白である。戦国時代は戦乱が長く続き、地域の有力者の家もしばしば焼失・略奪・断絶に見舞われた。たとえ家が存続しても、文書を組織的に保管する条件——識字能力、家督の連続、保管場所、そして長期にわたる継承の意志——が揃っていなければ、文書は散逸する。近世以降に再興した家の多くは、戦国期以前の文書を持たない。

特に、戦国大名から発給された朱印状を、家自身が継承して現代まで残している例は限られる。多くの場合、こうした文書は大名の家中や寺社に伝来するもので、宛名となった現地の家に文書が残ることは少ない。

この観点から見ると、原宿渡邉家の史料状況は際立って特異である。家自身に伝来した文書群が三千二百点にのぼり、その中に戦国大名(今川氏・武田氏)の朱印状写が二点含まれている。これは、近世以降に作られた家ではなく、戦国期から連続して同一の地で同一の家として存続してきたことを、史料の存在自体が物語っている。

二 天文十七年(一五四八)今川義元朱印状写

原宿渡邉家文書の中で、年代が明示された最古の文書は、天文十七年(一五四八)四月九日付の今川義元朱印状写である(静岡県立中央図書館蔵『駿河国駿東郡原宿渡辺家文書』第八五三号)。

内容は、原宿における人馬継立を担う家として、上松四郎兵衛宛てに発給されたものであり、関連史料として「渡辺八郎左衛門」の名が記されている。これは、戦国期の人馬継立史料としても最古級のものである。

この朱印状から確認できる事実は、以下の三つである。

第一に、一五四八年の時点で、原宿の地域はすでに東西交通の要衝として認識されており、人馬継立を担う家が地域に置かれていた。これは、慶長六年(一六〇一)の徳川家康による東海道宿駅整備よりも、半世紀以上前のことである。

第二に、渡邉家は、戦国大名・今川義元から直接認知された家であった。一介の村民や百姓ではない。今川氏という戦国大名が、その公的文書(朱印状)の中で名を記すほどの地域有力者であった。

第三に、この朱印状を渡邉家自身が継承し、現代まで残してきた。これは、家がこの文書を家の由緒を示す根本史料として認識し、何代にもわたって守り続けてきたことを意味する。文書の継承そのものが、家の連続性の証である。

今川氏が駿河を支配したのは、義元が桶狭間で討たれる永禄三年(一五六〇)までである。今川氏の滅亡後も、渡邉家はこの朱印状を捨てることなく、家の中で継承し続けた。次の支配者が変わっても、家の由緒を示す文書として保持された。

三 天正六年(一五七八)武田家朱印状写

今川氏の滅亡後、駿河は一時的に武田氏の支配下に入った。原宿の地域もまた、武田氏の支配を受けることとなる。この時期に発給されたのが、天正六年(一五七八)二月二十一日付の武田家朱印状写である(静岡県立中央図書館蔵『駿河国駿東郡原宿渡辺家文書』第八五四号)。

発給者は、興国寺城主・曽根内匠助である。興国寺城は原宿の北、現在の沼津市根古屋に位置する武田方の拠点であった。宛名は「渡辺八郎左衛門・上松・桜井・斎藤」の四名、すなわち原宿地域の主要な家である。内容は、武田氏の公用と郷中の治安維持を命じるものである(『沼津市史 史料編 近世2』p.211)。

この朱印状から確認できる事実は、次のとおりである。

第一に、今川氏の滅亡から武田氏の支配への移行の中で、渡邉家は地位を失わなかった。今川氏の朱印状を受けた家が、新しい支配者である武田氏の朱印状もまた受けている。これは、戦国大名の交代に翻弄されることなく、地域の中核として認知され続けた家であったことを示す。

第二に、武田氏が「公用」と「治安維持」を命じたという文書の性格は重要である。これは単なる人馬継立の指示ではなく、地域の自治と治安に責任を負う家として認知されていたことを意味する。武家としての性格を持つ家への命令である。

第三に、この朱印状もまた渡邉家自身が継承し、現代まで残してきた。今川朱印状とともに、戦国期の家の地位を証する根本文書として、家の中で守られてきた。

天文十七年(今川氏)と天正六年(武田氏)——三十年の隔たりを置く二つの戦国大名の朱印状が、いずれも原宿の渡邉家に伝来している。この事実だけで、戦国期の渡邉家が地域の中核として確立した家であったことは、史料的に確定する。

四 近世初頭——本陣設置と原宿の中心部への移転

天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に移封された。これに伴い、駿河・東海道の地域支配は再編された。慶長六年(一六〇一)、徳川家康は東海道に正式な宿駅を設置し、人馬継立の制度を整えた。

原宿は、この時に東海道の十三番目の宿駅として位置づけられた。すでに天文十七年の朱印状が示すように、この地は宿駅としての機能を半世紀以上前から持っていた。徳川による正式な宿駅指定は、既存の機能の制度化であった。

渡邉家は、近世に入ると原宿の中心部に居を構え、本陣を営むかたわら、問屋や年寄をもっとめるようになった(『沼津市史 史料編 近世2』p.211)。それ以前、戦国期には原の一里塚付近に居住して宿の西部地域を開発したとされる。中心部への移転は、宿駅としての中核的機能を担う家としての変容であった。

本陣とは、大名・公家・幕府役人など限られた人々が利用する公認の宿泊・休憩施設である。各宿に通常一軒置かれる、宿駅の中で最も格式の高い家である。原宿の本陣として認められたということは、徳川幕府の道中奉行から公的に承認されたことを意味する。

五 元和元年(一六一五)——お万の方の来訪

近世初頭の原宿渡邉家にとって最も決定的な出来事は、元和元年(一六一五)のお万の方(養珠院、一五七七〜一六五三)の来訪である。

お万の方は徳川家康の側室であり、紀伊徳川家の祖・徳川頼宣、水戸徳川家の祖・徳川頼房の生母である。すなわち、御三家のうち二家の母であり、徳川家の血脈を担う重要な側室であった。

このお万の方が、原宿の本陣に立ち寄った折に、原宿に日蓮宗の寺院がないことを知り、自分が信仰する日蓮宗の寺院を建立させたいと考えた。本陣の主人・渡辺八郎左衛門に対し寺の創建を勧め、日蓮の尊影と寺地を賜った(『沼津市史 史料編 近世2』p.263)。

この出来事は、極めて異例である。徳川家康の側室、しかも御三家の母が、一介の宿駅有力者の家に来訪し、寺の創建を勧め、日蓮の尊影を賜るというのは、稀有な事例である。

なぜこのような異例の処遇がなされたのか——本稿は、これを徳川家康がこの家を源頼朝の弟の系譜を担う家として認知していた可能性の証として位置づける。

その理由は以下のとおりである。

第一に、徳川家康自身が源氏の末裔を称した家であった。家康は新田源氏の系譜を引くと自称し、慶長八年(一六〇三)に征夷大将軍となる際にも、この系譜を根拠とした。源氏の家系は、徳川家にとって正統性の根幹であった。

第二に、お万の方は徳川家の重要人物であった。御三家のうち二家の母である人物が、わざわざ原宿の本陣に来訪したのである。一介の有力者への通常の処遇ではない。

第三に、お万の方は熱心な日蓮宗信者であった。日蓮宗の寺院を創建するという行為は、お万の方の信仰の表現であると同時に、徳川家としての宗教的施策でもあった。

第四に、原宿渡邉家もまた日蓮宗信者であった。お万の方の来訪と寺院創建は、家康側の宗教的意図と、渡邉家側の宗教的姿勢が一致した結果であった。

これらの背景を踏まえると、お万の方の来訪は単なる偶然や個人的な関心によるものではなく、徳川家による原宿渡邉家への意図的な認知の表現であった可能性が高い。徳川家は、この家を「同じく源氏に連なる家」として遇した——これが最も整合的な説明である。

六 長男分家の決断——昌源寺建立をめぐる異例の選択

お万の方からの寺院創建の勧めを受けて、当時本陣を勤めていた長男・八郎左衛門は、決定的な判断を下した。本陣職を弟・平左衛門(久次)に譲り、自身は分家して、家名「八郎左衛門」と原浦の漁業権を持って、昌源寺の建立と経営に専念する——という判断である(『沼津市史 史料編 近世2』p.211、p.263)。

この判断の異例性は、強調しておくべきである。

近世武家社会の家督制度において、長男が本家を継承するのは原則である。長男が分家して、弟が本家を継ぐというのは、極めて異例である。家督の継承順序を変更するためには、家全体の合意と、それを正当化する強い理由が必要であった。

原宿渡邉家は禅宗を菩提寺とする家であった。日蓮宗の寺を建立することは、家の菩提寺の宗派と異なる選択であり、家としては反発があった。それでも八郎左衛門は決断を貫き、家督を弟・平左衛門に譲って分家した。

長男が分家する際に持っていったのは、「八郎左衛門」という家名と、原浦の漁業権である。「八郎左衛門」は元和元年以前の家の当主の名であり、家の本来の名前である。長男系(分家)は、家の名前を継承した。

本家を継いだ次男・平左衛門(久次、寛永元年没)は、新しく「平左衛門」を襲名した。以後代々「平左衛門」を継ぎ、本陣・問屋を世襲して幕末まで続いた。

すなわち、元和元年を境として、原宿渡邉家は二つの系統に分かれた。血統上の直系は長男系(八郎左衛門系)であり、家督上の本家は次男系(平左衛門系)である——という二重構造が、ここに成立した。

七 昌源寺——お万の方から託された寺

長男・八郎左衛門が建立した寺は、昌源寺である。お万の方から賜った日蓮の尊影と寺地に基づいて建立された、徳川家の側室から直接の宗教的負託を受けた寺であり、地方の単なる檀那寺とは性格が異なる。

注目すべきは、駿河国原宿の出身で後に臨済宗中興の祖と呼ばれることになる白隠禅師(白隠慧鶴、一六八五〜一七六八)が、十一歳で母に連れられて昌源寺で日厳上人の説法を聞き、出家を決意したことである。白隠の自伝『壁生草』『策進幼稚物語』にこの記録がある。地元の有力寺院として、原宿の宗教的中心であった昌源寺の存在が、後の白隠禅師の生涯にも影響を与えた。

八 昌源寺をめぐる史料の異同

昌源寺の開基をめぐっては、史料間に重要な異同がある。

(A) 古文書および渡邉家文書、『沼津市史 史料編 近世2』(p.263)における記述——お万の方は原宿の本陣で渡辺八郎左衛門に寺の創建を勧め、日蓮の尊影と寺地を八郎左衛門らに賜った。八郎左衛門が中心となって寺院を造営し、昌源寺を開基した

(B) 現在の寺院側の説明——お万の方が開基となって寺を創建した。日蓮の尊影と寺地は寺に賜ったとされる(渡邉家にではなく)。渡辺八郎左衛門は宿泊先の当主として登場するにとどまる。

両者の違いは、単なる細部の異同ではなく、渡邉家がこの寺の建立においてどのような立場にあったかという、根本的な事実認識の違いである。

(A)では、お万の方が渡邉家を選び、渡邉家に尊影を下賜し、渡邉八郎左衛門が開基者となる——すなわち、渡邉家が寺の中心的存在である。(B)では、お万の方が直接開基者となり、寺に尊影を賜る——すなわち、渡邉家は脇役に位置づけられ、寺の中心的存在から外れる

なぜこの異同が生じたのか。複数の可能性が考えられる。

第一の可能性として、寺側に独自の伝承・史料があり、それに基づいて(B)が形成されてきた。近世のある時点で、寺院側の縁起・記録が(A)とは異なる形で整理された可能性がある。

第二の可能性として、寺の格式と権威の観点から(B)が選好された。徳川家康側室・お万の方を直接の開基者とする方が、寺の格は高まる。日蓮宗の歴史の中でも、お万の方は宗派の有力な外護者として位置づけられる。寺院として、開基を直接お万の方に結びつける説明は、宗派内での権威を強める方向に働く。

第三の可能性として、寺と渡邉家の関係を整理する何らかの意図があった。源氏を称する家が建立した寺であるという含意が、寺の自己定義においていずれかの時点で後景に退けられた可能性。これは、次節で論じる寺名の改変——「昌源寺」から「昌原寺」へ——とも整合する方向である。

本連作は、これらの可能性のいずれが事実であるかを判定する立場にない。しかし、(A)と(B)の異同が偶然のものではなく、何らかの意図的な再編の結果である可能性は指摘しておく必要がある。史料的事実として、近世の古文書群が記す経緯——お万の方が渡邉家に尊影を下賜し、八郎左衛門が寺を開基した——は、(A)を裏付けるものである。本連作は(A)に依拠して論じる。

九 「源」と「原」——寺名をめぐる史料の異同

寺名についても、史料間に重要な異同がある。

近世の古文書群、および白隠禅師の自著(『壁生草』『策進幼稚物語』)では、一貫して「昌源寺」と表記されている。これは近世における正式な表記である。一方、現在の寺院側では「昌原寺」と表記されている。

一字の違いだが、含意は根本から異なる

昌源寺」——「源」を昌(さか)える寺、と読むことができる。建立した渡邉家が源氏(阿野全成)の系譜を担う家であり、お万の方を通じて徳川家(同じく源氏を称する家)から尊影と寺地を賜った経緯を踏まえれば、この寺名は源氏の繁栄を祈る寺として、文字通りに意味を持つ。

昌原寺」——「原」を昌える寺、すなわち原(という地域)を昌える寺となる。源氏との含意は消え、地域寺院としての性格が前面に出る。

一字の違いが、寺の自己定義を根本から変える。

表記が「昌源寺」から「昌原寺」に変わった経緯は、現時点では確定的な研究がない。いつ、誰によって、どのような意図で改変されたかは不明である。

しかし、前節で論じた開基者の認識の異同(渡邉八郎左衛門→お万の方)と、寺名の改変(昌源寺→昌原寺)は、同じ方向——すなわち源氏(阿野全成)との繋がりを後景に退け、寺を地域の独立した日蓮宗寺院として再定義する方向——を向いていることは、観察として記しておく必要がある。

本連作は、史料に従って「昌源寺」の表記を用いる。これは近世の古文書および白隠禅師の自著における正式な表記である。

十 戦国期から近世初頭への連続

本稿で論じてきた事実を、ここで総合する。

戦国期に、原宿渡邉家は二つの戦国大名(今川氏・武田氏)から朱印状を受けた地域有力者であった。これは天文十七年・天正六年の二つの朱印状写が証する。家は戦国大名の交代に翻弄されることなく、原宿の地で連続して存続した。

近世に入ると、徳川幕府による東海道宿駅制度の中で、原宿の本陣として位置づけられた。原宿の中心部に居を構え、本陣・問屋・年寄を兼ねる家として、宿駅の中核を担った。

元和元年、徳川家康側室お万の方の来訪と日蓮宗寺院創建の勧めという、極めて異例の処遇を受けた。この処遇は、徳川家がこの家を源氏の末裔として認知していた可能性を示唆する。

そして、長男・八郎左衛門は、家の家督継承順序を覆してまで、お万の方の意を実現するために分家して昌源寺の経営に専念することを選んだ。これは家としての強い精神的伝統があったからこそ可能な決断であった。

これらの事実が示すのは、原宿渡邉家が戦国期に新興した家ではなく、それ以前から地域に根を張った家であったということである。戦国大名から認知され、徳川家から源氏の系譜を担う家として遇され、家としての強い精神的伝統を持っていた——これらすべては、家伝の通り、鎌倉期以来の系譜を持つ家であった可能性と整合する。

鎌倉期の阿野全成・時元から戦国期の渡邉八郎左衛門までの約三百三十年の系譜的空白を、直接の史料で埋めることはできない。しかし、戦国期に確認される家の地位と、近世初頭における徳川家からの異例の処遇は、家伝の真実性を支える状況証拠として、強い力を持つ。

家伝が捏造であった場合、なぜこの土地に、なぜこの家に、戦国大名と徳川家がこれほどの処遇を与えたのか——別の説明はにわかには見出しがたい。最も整合的な説明は、原宿渡邉家が阿野全成の系譜を継ぐ家として、戦国大名にも徳川家にも認知されていた、というものである。

結語

本稿で論じたのは、家伝の真実性を支える起点の論証である。

戦国期に二つの朱印状を受け、近世初頭に徳川家から異例の処遇を受け、長男分家という異例の判断を下した家——これらの事実は、家伝の系譜が真実である蓋然性を、複数の角度から支えている。

次篇では、本陣としての二百五十年の経営を論じる。本陣の規模、火災と再建、諸大名・公家の通行、明治元年の明治天皇東幸——これらの史実を、文書群に基づいて具体的に描き出す。

参考文献

・静岡県立中央図書館蔵『駿河国駿東郡原宿渡辺家文書』第八五三号(天文十七年今川義元朱印状写)
・同 第八五四号(天正六年武田家朱印状写)
・沼津市史編さん委員会・沼津市教育委員会編『沼津市史 史料編 近世2(町宿・文化)』沼津市、二〇〇〇年、p.211、p.263
・静岡県立中央図書館『古文書目録』昭和五十六年(一九八一)十一月、解題
・沼津市明治史料館『史料目録15 原 渡辺家文書目録』平成五年(一九九三)、解題
・渡辺八郎「近世に創設された寺院——特に原宿昌源寺について——」『駿河』第二四号、一九七四年
・白隠慧鶴『壁生草』『策進幼稚物語』
・静岡県立中央図書館「ふじのくにアーカイブ」(デジタル公開資料)

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