渡邉 朱鷺
第二篇

本陣としての二百五十年

火災と再建、諸大名・公家の通行、明治天皇東幸
五十嵐こと 初稿 2026年5月1日

はじめに

本稿は、原宿渡邉家連作の第二篇として、本家・次男系(平左衛門系)が元和元年(一六一五)から明治四年(一八七一)までの約二百五十年にわたって担った本陣としての活動を論じる。

本陣は、宿駅の中で最も格式の高い施設であり、大名・公家・幕府役人など限られた人々が利用する公認の宿泊・休憩施設である。原宿渡邉家は、徳川幕府の道中奉行から本陣として公認され、十代にわたって明治初年まで本陣を勤めた。

本稿では、史料群が記録する本陣経営の具体相——規模・特性、二度の火災と再建の苦労、諸大名・公家の通行記録、そして明治元年の明治天皇東幸まで——を、文書群に即して描き出す。

一 原宿本陣の規模と特性

『沼津市史 史料編 近世2』(p.211)によれば、原宿の渡邉本陣の規模は、建坪・畳数・部屋数などにおいて他の本陣とあまり違いはみられない。しかし、原宿本陣の運営には、立地に由来する独自の特性があった。

原宿は、東の沼津宿と西の吉原宿の中間にあたる。江戸日本橋から三十一里、京都三条大橋から九十四里。沼津宿と吉原宿の間に挟まれ、箱根越えにとっても距離的に中途半端な位置にあった。このため、本陣を利用する大名にとっても、休憩か昼食がほとんどで宿泊する大名は少なかった。

幕末になり大名の財政が窮迫すると、宿泊する大名の数はさらに減少していった。本陣は宿泊料・賄料を主要な収入源としていたため、宿泊客の減少は経営に直接影響した。

文化元年(一八〇四)の宿人別帳(静岡県立中央図書館蔵『駿河国駿東郡原宿渡辺家文書』第二四号、文化元年「宿人別(第弐)」)によれば、渡邉家の抱える下男下女は七人に過ぎない(『沼津市史 史料編 近世2』p.211)。本陣としての規模は決して大きくない。地方の本陣の典型的な姿である。

二 享保四年(一七一九)と延享二年(一七四五)——二度の火災

原宿渡邉本陣の歴史において、最も大きな試練は二度の火災であった。

享保四年(一七一九)延享二年(一七四五)の二度にわたって、本陣が焼失した(『沼津市史 史料編 近世2』p.211)。本陣の建物は、街道に面した広大な敷地に建つ大型の木造建築であり、一度焼失すれば再建には膨大な資金が必要であった。

本陣家にとって、火災後の再建は最大の難題であった。本陣は宿駅の格式を支える公的施設であり、再建しなければ宿駅としての機能が失われる。しかし、本陣家自身の財力だけでは再建費用を賄えない。

このとき、原宿渡邉家がとった行動は、当主・平左衛門自らが諸大名の江戸屋敷をまわって資金集めをするというものであった。

三 「江戸面願書帳」——資金集めの記録

この資金集めの記録が、史料として残っている。「江戸面願書帳」である(『沼津市史 史料編 近世2』第二節史料1、p.211)。

享保四年と延享二年の二度の火災で焼失した本陣を再建するために、諸大名の江戸屋敷をまわって資金集めをした記録である。本陣家にとって、諸大名は本陣を利用する顧客であり、関係を持っている相手である。火災で本陣が焼失したことを知れば、再建のための援助を期待できた。

重要なのは、この文書の中に主人の平左衛門が本陣再建にいかに辛苦したかを綿々と記して、自分の子息に伝えた手紙が残されていることである(同前)。これは公的な記録ではなく、家の中で次世代に向けて書かれた、個人的な性格を持つ文書である。

父から子へ、再建の苦労を伝える——この行為は、本陣を継承するという責務の重さを次世代に教える意味を持つ。本陣家の継承とは、単に職を譲ることではなく、家の責務を継ぐことであり、その責務の重さを身をもって伝えることであった。

この手紙の存在は、原宿渡邉家が単なる宿駅の運営者ではなく、家としての精神的伝統を持つ家であったことを示す。火災と再建という困難の中で、家を次世代に継承するために何を伝えるべきか——その問いに、当主は綿々たる手紙で答えた。

四 諸大名・公家の通行記録

原宿本陣を利用した諸大名・公家の記録は、史料群の中に多数残されている。特に注目されるのは、「諸家人馬印鑑」と呼ばれる文書群である(静岡県立中央図書館蔵第六一〇号〜第八四三号、約二三〇点)。

人馬印鑑とは、大名・公家・幕府役人が宿駅で人馬を継立する際に、その身分と数量を証明する印鑑(印影と添書)である。原宿渡邉家文書には、文化二年(一八〇五)から幕末・明治初頭にかけての諸家人馬印鑑が、約二三〇点にわたって残されている。

これらの印鑑からは、原宿を通行した諸家の多様性が読み取れる。御三家(紀州・尾州・水戸)、譜代大名(戸田、酒井、本多など)、公家(甘露寺、徳大寺、日野、坊城、広橋など)、勅使、京都所司代、大坂城代、二条城在番、長崎奉行、駿府町奉行、奈良奉行、堺奉行——徳川幕府の主要な役職と、京都・大坂に関わる諸職の通行が、ほぼ網羅的に確認できる。

特に、御公家衆の通行については独立した文書群が残る。文化六年(一八〇九)「御公家衆様御参向御帰京人馬立辻書上帳」(第二八一号)以降、文政・天保・弘化・嘉永の各年代にわたって、公家の参府と帰京の記録が継続的に残されている。

公家の通行は、伊勢神宮への奉幣使(例幣使)の派遣、徳川将軍家への祝賀使の派遣など、朝廷と幕府の関係を象徴する公的な往来であった。原宿本陣は、これらの公家の休憩・宿泊の場として、朝廷と幕府を結ぶ街道の一つの結節点であった。

五 文政三年(一八二〇)原宿明細書上

文政期、徳川幕府は東海道の宿駅に対して、宿の明細を書上げさせる調査を行った。文政三年(一八二〇)に作成された「御尋ニ付申上候書付控(原宿明細書上)」(静岡県立中央図書館蔵第三七号)は、当時の原宿の構成を詳細に記した公式報告書である。

同書には、宿駅としての原宿の人口、家数、本陣・脇本陣・旅籠の数、人馬の体制、助郷の構成などが記されている。本陣家としての渡邉家の役割と、宿駅全体の中での位置づけが確認できる根本史料である。

注目されるのは、同年十一月に作成された「覚(宿内苗字帯刀幷取締役相勤候者御尋ニ付一札)」(第四〇号)である。これは、宿内で苗字帯刀を許された者の調査である。本陣家として、また問屋年寄として、渡邉家の当主が宿の中で武士に準ずる格式を認められていたことが、ここから確認できる。

六 天保期から幕末——大名通行の変質

天保期(一八三〇年代)以降、本陣を取り巻く環境は大きく変わった。大名の財政窮迫により、参勤交代に伴う通行が縮小し、本陣を利用する宿泊客は減少した。一方、幕末になると政治的緊張が高まり、勅使・幕府要人の通行が頻繁化した。

弘化二年(一八四五)十月の「勅使徳大寺大納言様御参向之節人馬継立高書上帳」(第三四〇号)、嘉永元年(一八四八)四月の「三条大納言様御参向人馬御継立高書上帳」(第三四四号)など、勅使・公家の通行記録が幕末期に集中している。これは、朝廷と幕府の関係が政治的に重要性を増していたことを反映している。

慶応元年(一八六五)十二月以降の文書群——「御進発御中軍並御前後御人数日〆帳」(第九五号)以下——は、第二次長州征伐に伴う将軍家茂の上洛と、それに伴う本陣の対応を記録している。本陣家として、幕府の最後の軍事行動に動員された記録である。

七 明治元年(一八六八)——明治天皇東幸

原宿渡邉本陣の最後の歴史的瞬間は、明治元年(一八六八)十月七日の明治天皇東幸であった。

明治天皇は京都から江戸(東京)へ東幸する途中、原宿に立ち寄り、渡邉本陣で「御小休」をされた。これは、原宿本陣にとって、最後にして最高の栄誉であった。

明治天皇の東幸は、王政復古を象徴する出来事であり、新政府の正統性を示す儀式であった。その途中、徳川幕府によって整備された東海道の本陣で、新政府の天皇が小休されたのである。歴史の節目に、原宿本陣は立ち会った。

慶応四年(一八六八)四月二十九日の「御勅使様大御総督様御警衛御役々様御賄人馬諸掛リ取調割合帳」(第二二四号)には、明治政府軍の東進に伴う通行の記録が残されている。慶応四年九月の「御束幸供奉人馬継立・休泊仕払御印鑑」(第六六八号)は、明治天皇東幸の人馬継立を担った印鑑の記録である。

東幸の後、明治四年(一八七一)の宿駅制度廃止により、本陣・問屋・牧士という近世的な役職は制度的基盤を失った。元和元年から続いた本陣の歴史は、ここに終わった。

八 平左衛門陸英から致英へ——本陣最後の当主たち

本陣を支えた当主の中で、近世後期に特に重要な役割を果たしたのが、平左衛門陸英と、その子致英である。

平左衛門陸英(七代)は、家業の本陣を営むほか、問屋や取締名主にもなった人物である。文化八年(一八一一)に父から本陣を継ぎ、文化年間から天保期にかけての本陣経営を担った。さらに、後述する愛鷹牧の最初の牧士として任命された人物でもある(『沼津市史 史料編 近世2』p.211)。

陸英は俳諧をよくし、俳号「環亭去留」として岳南俳壇に名を残した文人でもあった。本陣家として街道経営を担いつつ、文化人として地域の文化を支えた人物である。

陸英の子・致英は、天保期から長く本陣・問屋・牧士筆頭を務め、嘉永四年(一八五一)には阿野全成・時元父子の六五〇年忌として大泉寺の墓所を整備した(第七篇で詳述)。明治四年(一八七一)、幕府の与力となって江戸で没している。本陣最後の代の当主であり、近世そのものの終焉とともに生涯を閉じた人物である。

九 本陣としての二百五十年が語ること

本稿で論じてきた本陣としての活動は、約二百五十年にわたる長期の継承であった。

この継承は、平穏なものではなかった。二度の火災、諸大名の財政窮迫による宿泊客の減少、幕末の政治的緊張、そして近世そのものの終焉——本陣家は次々に押し寄せる困難に直面した。

にもかかわらず、原宿渡邉家は本陣を二百五十年にわたって継承した。その背後には、当主たちの努力と、家としての精神的伝統があった。「江戸面願書帳」に記された平左衛門の手紙は、その精神性の片鱗を伝えている。

本陣家としての活動の具体相——火災と再建、諸大名・公家の通行、明治天皇東幸——これらは、原宿渡邉家が単なる地方の有力者ではなく、東海道という国家的な交通網の中核を担った家であったことを示す。家の重みは、その活動の重みによって支えられていた。

次篇では、本陣と表裏一体をなす問屋・人馬継立と助郷の経営を論じる。本陣が宿駅の格式を担う施設であるのに対し、問屋は宿駅の経済的・運営的な中核である。原宿渡邉家は、本陣と問屋を兼ねる稀有な家であった。

参考文献

・静岡県立中央図書館蔵『駿河国駿東郡原宿渡辺家文書』
  第二四号 文化元年「宿人別(第弐)」
  第三七号 文政三年「御尋ニ付申上候書付控(原宿明細書上)」
  第四〇号 文政三年「覚(宿内苗字帯刀幷取締役相勤候者御尋ニ付一札)」
  第九五号 慶応元年「御進発御中軍並御前後御人数日〆帳」
  第二二四号 慶応四年「御勅使様大御総督様御警衛御役々様御賄人馬諸掛リ取調割合帳」
  第二八一号 文化六年「御公家衆様御参向御帰京人馬立辻書上帳」
  第三四〇号 弘化二年「勅使徳大寺大納言様御参向之節人馬継立高書上帳」
  第三四四号 嘉永元年「三条大納言様御参向人馬御継立高書上帳」
  第六一〇号〜第八四三号 諸家人馬印鑑
  第六六八号 慶応四年「御束幸供奉人馬継立・休泊仕払御印鑑」
・沼津市史 史料編 近世2(町宿・文化)p.211、第二節史料1「江戸面願書帳」
・沼津市立駿河図書館編『原宿問屋渡辺八郎左衛門日記』一九七九年

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