渡邉 朱鷺
第四篇

愛鷹牧の牧士として

徳川幕府直轄牧場の経営と平左衛門陸英・致英
五十嵐こと 初稿 2026年5月1日

はじめに

本稿は、原宿渡邉家連作の第四篇として、本家・次男系(平左衛門系)が近世後期に担った愛鷹牧の牧士としての活動を論じる。

愛鷹牧は、愛鷹山の麓に広がる徳川幕府直轄の馬牧場である。江戸時代を通じて、軍馬・乗用馬の供給地として機能した。原宿渡邉家は、近世後期にこの愛鷹牧の管理を担う牧士に任命された。本陣・問屋に加えて牧士を兼ねるという複合的な役割は、原宿渡邉家の家としての性格を最もよく示している。

本稿では、牧士という役職の性格、平左衛門陸英以降の牧士継承、文書群が記録する愛鷹牧の経営の実態を論じる。

一 愛鷹牧と牧士の制度

愛鷹山は、富士山の南東、現在の沼津市・裾野市・三島市・長泉町・清水町・御殿場市にまたがる山地である。古代より馬の名産地として知られ、阿野荘の地理的特徴の一つでもあった。

近世に入ると、愛鷹山の麓に広がる原野は、徳川幕府の直轄牧場として整備された。これが愛鷹牧である。愛鷹牧は東・中・西の三牧に分かれ、軍馬・乗用馬の供給地として機能した。

牧士(まきし、もくし)とは、これらの幕府牧場の管理を担う役職である。馬の飼育・調教・管理、牧場の維持、勢子(馬追い)の動員、定期的な馬の検査と幕府への上納——これらすべてを統括する。牧士は世襲ではなく、地域の有力者の中から幕府の任命によって選ばれた。

牧士は、近世日本における武家に準ずる役職であった。徳川幕府の軍事的基盤の一翼を担う役職であり、苗字帯刀を許され、刀剣の所持を認められた。地域の百姓・町人の中から選ばれることはあったが、それは家としての格と能力を認められた家のみが担うことができた。

二 平左衛門陸英——最初の牧士

原宿渡邉家において、最初に愛鷹牧の牧士に任命されたのが、本家・次男系の平左衛門陸英(七代)である(『沼津市史 史料編 近世2』p.211)。

陸英は文化八年(一八一一)に父から本陣を継ぎ、本陣・問屋・取締名主に加えて牧士を兼ねるという、近世後期の原宿渡邉家の体制を確立した人物である。文化文政期から天保期にかけて、原宿渡邉家の活動が最も多角的に展開した時代の中核を担った。

陸英はまた、俳号「環亭去留」として岳南俳壇に名を残した文人でもあった(『沼津市史 史料編 近世2』p.211)。本陣・問屋・牧士という複合的な公務を担いつつ、文化人として地域の俳諧文化を支えた。

陸英の任命は、原宿渡邉家にとって新しい役割の獲得であった。それまで本陣・問屋として街道経営を担ってきた家が、近世後期に至って、徳川幕府の軍事的基盤の一翼を担う牧士をも兼ねることになった。これは、家としての格と能力が幕府から認められた結果である。

三 愛鷹牧管理の実態

愛鷹牧の管理は、複数の家・個人が分担して担った。原宿渡邉家は、その中で重要な位置を占めた。沼津市明治史料館蔵『原 渡辺家文書』のカテゴリー「愛鷹牧」(一九件)には、文政期から幕末・明治期にかけての愛鷹牧関連史料が含まれている(『史料目録15 原 渡辺家文書目録』)。

愛鷹牧の管理業務は多岐にわたった。

第一に、馬の飼育と調教。牧場に放牧された馬を管理し、定期的に集めて検査し、幕府の軍用・乗用に供することができる状態に整えた。

第二に、牧場の維持。広大な牧場の境界線の確認、柵の修繕、水場の確保、害獣の駆除など、牧場としての機能を維持する作業が必要であった。

第三に、勢子の動員。馬を集める「野馬追い」の際には、近隣の村々から多数の勢子(馬追い)を動員した。これを統括するのも牧士の責務であった。

第四に、幕府への報告。馬の頭数、飼育の状況、上納する馬の数などを定期的に幕府の道中奉行・牧場奉行に報告した。

四 文久二年(一八六二)愛鷹三牧勢子割帳

原宿渡邉家文書の中で、愛鷹牧の運用を最も具体的に示すのが、文久二年(一八六二)の「愛鷹三牧勢子割帳」(静岡県立中央図書館蔵第二〇六号)である。

これは、愛鷹三牧(東・中・西)の野馬追いに動員される勢子(馬追い)を、近隣村々に割り当てた記録である。各村ごとに動員人数が割り振られ、合計でかなりの規模の人員が動員されたことが分かる。

この文書は、愛鷹牧が単に幕府の馬牧場であるだけでなく、地域の村々を巻き込む大規模な事業であったことを示す。牧士は、近隣村々との関係を取り結び、勢子の動員を実現する社会的能力を持っていなければならなかった。原宿渡邉家がこれを担えたのは、本陣・問屋として地域の中核に位置していた経験があったからである。

本陣・問屋・牧士という三つの役職は、原宿渡邉家の中で有機的に結びついていた。本陣・問屋として街道経営に関わる中で蓄積された地域社会との関係が、牧士としての職務を可能にした。家の活動の各領域が相互に支え合う構造が、ここに現れている。

五 平左衛門致英の牧士筆頭としての活動

陸英の子・平左衛門致英は、天保期から長く牧士筆頭を務めた。父から牧士の役を継承し、幕末期の愛鷹牧の運営を担った。

致英は、本陣・問屋・牧士筆頭という、近世後期の原宿渡邉家の最も重い責任を一身に担った人物である。第二篇で述べたように、明治四年(一八七一)に幕府の与力となって江戸で没している。本陣の終焉と運命を共にした最後の代の当主であった。

そして致英は、嘉永四年(一八五一)に阿野全成・時元父子の六五〇年忌として大泉寺の墓所を整備した人物でもある。本陣・問屋・牧士という近世的な公務を担いながら、家伝の継承という別の責務をも果たした——この二重の負担を引き受けたのが、致英という人物であった(第七篇で詳述)。

六 明治維新後の牧士制度の終焉

明治元年(一八六八)以降、徳川幕府の崩壊とともに、愛鷹牧の制度的基盤も失われた。明治四年(一八七一)の宿駅制度廃止と並行して、牧士の制度も終わった。

愛鷹牧の土地は、明治初期に新政府の管轄下に入り、その後は牧場としての機能を縮小しながら、近代的な土地利用へと変化した。原宿渡邉家の牧士としての公的役職は、本陣・問屋とともに、近世そのものの終焉とともに終わった。

しかし、愛鷹牧をめぐる文書群は、家の中で守り続けられた。沼津市明治史料館蔵『原 渡辺家文書』のカテゴリー「愛鷹牧」に含まれる一九件の文書は、近世後期から近代初頭にかけての愛鷹牧の経営の記録として、現代に伝わっている。

沼津市明治史料館は、これらの愛鷹牧関連史料を含めて、平成三年(一九九一)に『愛鷹牧』という研究書を刊行した。原宿渡邉家文書は、近世日本の牧場制度を研究する上での貴重な一次史料となっている。

七 牧士という役割の意味

本稿で論じてきた愛鷹牧の牧士としての活動は、原宿渡邉家の家としての性格を理解する上で、極めて重要である。

牧士は、近世日本において武家に準ずる役職であった。徳川幕府の軍事的基盤の一翼を担う役職であり、苗字帯刀を許される。本陣・問屋という宿駅運営の役職と、武家に準ずる牧士の役職を兼ねる家は、近世日本において稀である。

しかも、原宿渡邉家はこれら三つの役職に加えて、分家・長男系が原浦の津元として浜方漁業を担っていた(第五篇で詳述)。さらに昌源寺の檀越として地域の宗教的中心の一角を担い、富士講の伝授拠点となり(第六篇で詳述)、文人を輩出していた。

これだけ多面的な活動を一つの家系が兼ねていた例は、近世日本において極めて稀である。なぜこの家がこのように多面的な活動を兼ねえたのか——その答えは、家としての強い基盤と精神的伝統にある。

家伝として、源頼朝の弟・阿野全成の子孫であるとされてきたこの家は、戦国大名から認知され、徳川家から異例の処遇を受け、そして近世社会の中で本陣・問屋・牧士・津元・寺院檀越・文人——これらすべてを兼ねる稀有な家として展開した。家としての多面性そのものが、家伝の真実性を支える状況証拠の一つとなる。

次篇では、分家・長男系(八郎左衛門系)の主要事業であった原浦の津元——浜方漁業の経営を論じる。本陣・問屋・牧士という街道に向いた活動とは別に、海に向いた活動が、家の中でもう一つの軸として展開していた。

参考文献

・静岡県立中央図書館蔵『駿河国駿東郡原宿渡辺家文書』
  第二〇六号 文久二年「愛鷹三牧勢子割帳」
・沼津市明治史料館蔵『原 渡辺家文書』カテゴリー「愛鷹牧」(一九件)
・沼津市明治史料館編『愛鷹牧』一九九一年
・沼津市史 史料編 近世2(町宿・文化)p.211
・沼津市明治史料館『史料目録15 原 渡辺家文書目録』平成五年(一九九三)

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