渡邉 朱鷺
第五篇

原浦の津元——浜方漁業の経営

西組大網(八郎綱)と分家・長男系の事業
五十嵐こと 初稿 2026年5月1日

はじめに

本稿は、原宿渡邉家連作の第五篇として、分家・長男系(八郎左衛門系)が担った原浦の津元——浜方漁業の経営を論じる。

本陣・問屋・牧士という街道に向いた活動を本家・次男系(平左衛門系)が担ったのに対し、分家・長男系(八郎左衛門系)の主要事業は、原浦の漁業権と津元としての海に向いた活動であった。元和元年(一六一五)の長男分家の際、長男・八郎左衛門が家名「八郎左衛門」とともに継承したのが、この原浦の漁業権である。

原宿渡邉家の特異性は、本家が街道、分家が海——という二方向の活動を、一つの家系が並行して展開したことにある。本稿では、この海の活動の具体相を、文書群に基づいて描き出す。

一 原浦と津元制度

原宿は、東海道に面しているだけでなく、駿河湾に面する漁業の浦でもあった。原浦と呼ばれるこの海岸は、古くから漁業が営まれ、独自の漁業組織が形成されていた。

近世の漁業組織の中核を担ったのが、津元(つもと、しんがし)と呼ばれる存在である。津元は、特定の漁場の権利を持ち、漁網と船の運用を統括する漁業の主体である。配下の漁師たちを組織し、漁獲を分配し、運上金を幕府に納入した。津元は、漁業における問屋に相当する役職であり、地域の経済的中核を担った。

原浦には、東組と西組の二つの大網(おおあみ)があった。東組大網と西組大網(八郎綱)である。「八郎綱」という呼称が示すように、西組大網は渡邉八郎左衛門の家が津元を務める網であった。

二 長男分家による漁業権の継承

元和元年(一六一五)、長男・八郎左衛門が本陣職を弟に譲って分家する際、家名「八郎左衛門」とともに原浦の漁業権を持って分家した(『沼津市史 史料編 近世2』p.211、静岡県立中央図書館『古文書目録』解題)。

これは重要な事実である。長男が分家する際に持っていったのは、家名と漁業権という、家の経済的・象徴的な根幹であった。本陣職という新しい職務を弟に譲り、自身は家の本来の名前と海に向いた事業を継承した。長男系・分家は、家の精神的伝統と海に向いた事業を担う系統として確立した。

分家・長男系は、その後も漁業を中心に活動を展開した。後に斎藤忠左衛門の屋敷と田畑を譲り受け、上松四郎兵衛から原浦の漁業権をも収め、原宿西部地域の有力家としての地位を強化した(静岡県立中央図書館『古文書目録』解題)。

上松四郎兵衛は、第一篇で論じた天文十七年今川義元朱印状写の宛名となった家である。戦国期の原宿地域における主要な家の一つであった。その家から漁業権を受け継いだということは、長男系・分家が原浦の漁業を統括する存在として、地域に確立したことを意味する。

三 西組大網(八郎綱)の津元として

分家・長男系の渡邉八郎左衛門は、原浦の西組大網(八郎綱)の津元として、近世を通じて原宿西部の漁業を統括した。

津元としての職務は、漁網と船の運用、漁師の組織化、漁獲の分配、運上金の納入、漁場の境界の管理、東組大網との調整など、多岐にわたった。原宿渡邉家文書の中で、これらの活動を記録する文書群は、静岡県立中央図書館蔵『駿河国駿東郡原宿渡辺家文書』のカテゴリー「宿浜方漁業」(第一〇六五号〜第一〇九五号、約三〇点)に集積されている。

分家・長男系は、この津元としての地位を背景として、近世後期には宿駅運営にも関与するようになった。文化年間(一八〇四〜一八一八)に至って初めて問屋役となり、その後、名主・年寄なども務めて幕末に及んだ(静岡県立中央図書館『古文書目録』解題)。元和元年の分家から約二百年を経て、分家もまた宿駅の中核に参入するに至った。

四 安政三年(一八五六)「為後世まかせ網一件規定書之写」

原浦の漁業の経営を最も具体的に示す文書の一つが、安政三年(一八五六)の「為後世まかせ網一件規定書之写」(静岡県立中央図書館蔵第一〇六五号)である。

「まかせ網」とは、津元が配下の漁師たちに漁網の運用を任せる仕組みである。津元が網と船を所有し、漁師たちがそれを用いて漁を行い、漁獲を分配する。この規定書は、その仕組みを後世に伝えるために作成された。

「為後世」(後世のため)と冠されていることが重要である。これは、現在の運用を記録するだけでなく、将来の世代がこの仕組みを正しく継承できるように、規定を文書化したものである。津元としての家の責務を、世代を超えて継承するという意志が表れている。

この文書から読み取れるのは、原浦の漁業が、単なる経済活動ではなく、家の伝統として継承されるべき事業であったということである。本陣家の「江戸面願書帳」における平左衛門の手紙(第二篇)と同じく、家の責務を次世代に伝えるという文書的伝統が、分家・長男系にも確立していた。

五 幕末から明治維新——常次郎の活動

分家・長男系の幕末から明治にかけての当主は、八郎左衛門常次郎(一八三二〜一九〇二)である。常次郎は、近世から近代への転換期を生きた人物として注目される。

常次郎は、幕末に韮山代官の農兵に応募した。農兵は、幕末期の海防・治安維持のために、農民・町人から組織された武装組織である。文久・元治期の韮山代官・江川太郎左衛門による農兵組織が著名である。原宿の渡邉家もこれに加わった。これは、家としての武家的性格の表れである。

常次郎はまた、年寄・問屋を務めた。明治維新後は、戸長・小区会議員・町会議員などの公職を歴任した。近世の問屋家としての経験を、明治の近代的地方行政の中で活かした人物である。

常次郎の残した日記は、『原宿問屋渡辺八郎左衛門日記』として昭和五十四年(一九七九)二月、沼津市立駿河図書館から刊行されている。幕末から明治期の地方有力者の生活と活動を伝える貴重な史料である。

六 明治五年(一八七二)「原宿魚漁御運上幷船税御願書」

明治維新後、漁業制度も大きく変革された。新政府は、近世の津元制度を改編し、新しい漁業税制を導入した。

この変革に対応する文書が、明治五年(一八七二)の「原宿魚漁御運上幷船税御願書」(静岡県立中央図書館蔵第一〇八二号)である。発信者は「西網津元渡辺八郎左衛門」、すなわち分家・長男系の常次郎である。

この文書は、原宿の漁業に対する新しい運上金と船税についての願書である。近世の津元制度から近代の漁業税制への移行期に、津元としての立場から新政府に対して説明・要望を行った記録である。

近代化の波の中で、近世的な漁業組織が再編されていく過程に、原宿渡邉家の分家・長男系がいかに対応したかが、この文書から読み取れる。明治期に入ってからも、家は漁業組織の中核としての役割を担い続けた。

七 二系統の家と二方向の活動

本稿で論じてきた分家・長男系(八郎左衛門系)の浜方漁業の経営は、本家・次男系(平左衛門系)の本陣・問屋・牧士の活動と並行して展開された、もう一つの軸である。

本家・次男系——街道に向いた活動。本陣・問屋・牧士。徳川幕府の街道制度と軍事制度の一翼を担う。

分家・長男系——海に向いた活動。原浦の津元・浜方漁業。地域の漁業組織の中核を担う。

これら二方向の活動を、一つの家系が並行して展開した。両系統は、ともに「渡邉」を名乗りながら、別の事業を担い、それぞれが文書群を残した。家全体としては、街道と海の両方を支える、地域の中核的な家として展開した。

この二方向性こそが、原宿渡邉家の特異性である。多くの宿駅家が街道経営に集中するのに対し、原宿渡邉家は分家を通じて海の事業をも担っていた。これは、家としての規模と能力、そして長男分家という近世初頭の決断によって可能になった構造である。

次篇では、原宿渡邉家の宗教的中心としての側面——昌源寺と富士講——を論じる。元和元年に長男分家のきっかけとなった昌源寺は、その後の渡邉家にとって精神的中心であり続けた。富士講関連の史料群は、この家が地域の民間宗教の伝授拠点でもあったことを示す。

参考文献

・静岡県立中央図書館蔵『駿河国駿東郡原宿渡辺家文書』
  第一〇六五号 安政三年「為後世まかせ網一件規定書之写」
  第一〇八二号 明治五年「原宿魚漁御運上幷船税御願書」
  第一〇六五号〜第一〇九五号 「宿浜方漁業」関連史料
・沼津市立駿河図書館編『原宿問屋渡辺八郎左衛門日記』一九七九年二月
・沼津市史 史料編 近世2(町宿・文化)p.211
・静岡県立中央図書館『古文書目録』昭和五十六年(一九八一)十一月、解題
・沼津市明治史料館『史料目録15 原 渡辺家文書目録』平成五年(一九九三)

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