三所信仰圏と幕府の宗教構造
はじめに
本稿は、別稿「全成は頼朝と政子の灌頂の師であった」および「『吾妻鏡』が消した男」を前提として、頼朝政権が依拠した宗教的基盤の構造を論じる。
通説では、鎌倉幕府の宗教的拠点は鶴岡八幡宮を中心とし、伊豆山権現と箱根権現がその次に位置するとされてきた。しかし史料を丁寧に読み直すと、鎌倉初期において伊豆山権現と箱根権現は鶴岡八幡宮よりも上位の祈願対象として機能しており、しかもこの二所権現は三嶋大社と一体の信仰圏を構成していた。その中核に走湯権現があり、走湯権現の座主であったのが阿野全成である。
本稿はこの三所信仰圏の構造を、『佛身一躰灌頂鈔』および『箱根神社大系』に依拠して論じる。
一 『佛身一躰灌頂鈔』が示す三所一体の構造
書の中で、箱根・三嶋・走り湯は別個の三つの霊場ではない。三所が一つの信仰圏を構成し、その霊力は相互に流れ込んでいる。
走湯権現は霊泉として、三嶋大明神は深奥の秘儀を宿す霊場の主として、箱根は修行の聖地として描かれる。書はこの三所を、互いに分離不可能な一体のものとして語る。複数の中核的な秘儀概念が、三所のいずれにおいても通用するものとして示されており、走湯権現の湯と三嶋の神格、箱根の修行は、相互に通じるものとして記される。
この構造において、走湯権現が中核的な位置を占める。書物は走湯権現の縁起を最も詳細に語り、その霊力を最も高く評価する。三嶋大明神は走湯権現と並び立つ存在として語られるが、信仰圏としては走湯権現を中心に三嶋大社が取り込まれていた。
二 箱根神社大系が記録する奉幣の順序
『箱根神社大系』に収録された幕府の奉幣記録を見ると、興味深い順序が浮かび上がる。
建久四年(1193年)三月四日の供養先として、勝長寿院・永福寺・伊豆山・筥根山・高麗寺・大山寺・若宮が列挙されている。建久五年(1194年)の記録には「御台所為奉、幣于伊豆筥根両権現。令進發之」とあり、御台所(北条政子)が伊豆山・箱根の両権現に奉幣したことが明記される。
ここで注目すべきは、奉幣の順序が一貫して「伊豆山・箱根 → 勝長寿院・永福寺 → 若宮(鶴岡)」となっていることである。鶴岡八幡宮は公式の武家儀礼の場として機能していたが、祈願対象としての序列では、伊豆山・箱根の方が上位に置かれていた。
これは現在の通説的な歴史叙述と大きく異なる。鶴岡八幡宮は「幕府の守護神」として最重要視されてきたが、幕府の私的・宗教的行為における奉幣の順序は、伊豆山・箱根を上位とする構造を示している。
三 二所詣と三嶋大社
『箱根神社大系』はさらに、「二所詣」の制度について記す。「二所詣」は鎌倉時代、将軍家が正月行事として毎年参詣することを習例としていた。
ここで重要なのは、「二所詣」の対象である。一般には伊豆山と箱根の二所と理解されることが多いが、『箱根神社大系』の記述を見る限り、箱根・伊豆山・三嶋の三所が一体として崇敬され、「二所詣」と称された時期がある。三嶋大社は、別個の対象としてではなく、二所詣の信仰圏の中に取り込まれていた。
これは『佛身一躰灌頂鈔』が示す三所一体の構造と整合する。秘伝書の世界において三所が一つの信仰圏を構成していたのと同様に、幕府の公式参詣行事においても、三所は一体として扱われていた。三嶋大社は単独の伊豆国一宮としてではなく、走湯権現を中核とする三所信仰圏の一翼として、幕府の宗教構造に組み込まれていた。
四 頼朝・政子と三所信仰圏
書には、治承四年(1180年)八月十八日——頼朝挙兵の翌日——の記録に、頼朝と政子の名が現れる。頼朝が一生涯にわたって誓いを犯さない者として定められたこと、そして御台所(北条政子)もまた毎日の勤行を熱心に行ったことが記される。
この「誓い」「勤行」は、走湯権現を中核とする三所信仰圏の灌頂の系譜のもとで授けられたものである。すなわち頼朝・政子は、挙兵以前からこの信仰圏の弟子であり、挙兵の翌日にはその誓いと勤行が秘伝書に記録される立場にあった。
別稿「全成は頼朝と政子の灌頂の師であった」で論じた通り、頼朝・政子の灌頂の師は、走湯権現の座主=全成であった。したがって、頼朝政権の宗教的基盤は、座主=全成が中核に位置する三所信仰圏であったということになる。
五 二所詣の制度化が意味するもの
頼朝が幕府を開いた後、走湯権現と箱根権現への参詣は「二所詣」として制度化され、将軍家の正月行事となった。三嶋大社もまたこの信仰圏に取り込まれていた。
通説では、二所詣の制度化は、石橋山の戦いで命を救ってくれた恩義への報いと説明される。しかしこの説明は、二所権現が幕府の公式参詣行事として制度化された規模と継続性を捉えきれていない。恩義への報いであれば、一度の参詣や祈願で十分なはずである。それが正月行事として制度化され、将軍家代々が毎年参詣することを習例としたという事実は、別の構造を示している。
二所詣の制度化が意味するのは、走湯権現を中核とする三所信仰圏が、頼朝政権の宗教的基盤そのものとして公式化されたということである。挙兵以前から頼朝・政子が属していた信仰圏が、幕府成立後にそのまま幕府の公的な宗教構造へと拡張された。
このとき、三所信仰圏の中核——走湯権現——の座主は全成であった。すなわち、頼朝政権の宗教的基盤の中核に座っていたのが全成である。幕府の公的な宗教構造は、座主=全成の存在を前提として成り立っていた。
六 全成誅殺後の構造
1203年、全成は比企氏との抗争の中で誅殺される。しかし二所詣の制度はその後も継続し、北条氏主導の幕府体制下でも将軍家の正月行事として続いた。
これは興味深い事実である。全成という個人は誅殺されたが、全成が中核に位置していた三所信仰圏の制度は維持された。北条氏は、自らが誅殺した人物が築いた宗教的基盤の上に、その後の幕府体制を構築したのである。
『吾妻鏡』が全成の座主としての地位を消去したのは、この矛盾を覆い隠すためでもあろう。北条氏は二所詣の制度を維持することで幕府の宗教的正統性を保ったが、その制度の起源にいた全成の名は記録から消す必要があった。座主の名を空白にすることで、二所詣はあたかも頼朝の信仰心と源氏の伝統に基づくものであるかのように記録された。実際には、その制度の中核に立っていた人物が、北条氏が誅殺した一人の僧侶——阿野全成——であったことは、史料の表面からは見えなくなった。
結語
走湯権現を中核とする三所信仰圏は、鎌倉幕府の宗教的基盤として機能していた。『佛身一躰灌頂鈔』は三所が一体の信仰圏を構成していたことを示し、『箱根神社大系』は奉幣の順序と二所詣の制度を記録する。両史料が示す構造は、頼朝政権の宗教的中核が走湯権現にあったこと、そしてその走湯権現の座主が阿野全成であったことを背景としてはじめて整合的に理解される。
『吾妻鏡』が描く「鶴岡八幡宮を中核とする幕府の宗教構造」は、史料の表面のみを切り取った像である。その背後には、走湯権現を中核とする三所信仰圏が存在し、その中核に座っていたのが全成であった。
幕府の宗教構造を歴史的に正確に理解するためには、この三所信仰圏の構造と、その中核にあった全成の存在を、史料に基づいて復元しなければならない。