阿野上総介・全成
はじめに
本稿は、別稿「全成は頼朝と政子の灌頂の師であった」「『吾妻鏡』が消した男」「三所信仰圏と幕府の宗教構造」を前提として、阿野全成の世俗的・政治的な地位を論じる。
通説では、阿野全成は「源頼朝の異母弟」「悪禅師」として描かれ、宗教者の側面が強調されてきた。1203年の誅殺もまた、宗教的な事件——「呪詛」の罪による排除——として理解されてきた。
しかし『箱根神社大系』に収録された幕府記録を見ると、全成は世俗的・政治的な人物として、御家人体制の中に明確な地位を持っていたことがわかる。1203年の誅殺もまた、宗教者の排除ではなく、将軍家に近すぎた政治的人物の粛清として読み直される。
一 「阿野上総介」という官職名
『箱根神社大系』に収録された建久三年(1192年)八月九日、源実朝(千幡君)誕生の記録に、次の一文が見える。
> 阿野上總妻室。(阿波局)為御乳。千萬君云々。
すなわち、阿野上総(介)の妻室——括弧書きで「阿波局」と注記される——が御乳(乳母)に任じられた、という記録である。乳母に任じられた相手は実朝(千幡君)である。
ここで決定的に重要なのは、全成が「阿野上総介」という官職名で記載されている点である。「上総介」は上総国の介(次官)を指す官職名であり、人名ではない。中世の公式記録では、本人の名前を直接書かず、氏+官職で人物を特定するのが通例である。すなわちこの記録は、
阿野(氏)+上総介(官職)+妻室(妻)
という構造で全成の妻を指している。
全成は出家僧でありながら、還俗して「阿野上総介」という世俗の官職名を持っていた。箱根神社大系の幕府記録に「阿野法橋」や「悪禅師全成」ではなく「阿野上総妻室」と世俗の官職名で記録されているということは、この乳母任命が宗教的儀礼ではなく幕府の政治的行為として記録されたことを意味する。
つまり全成は「頼朝の弟である僧侶」としてではなく、御家人・阿野上総介として箱根権現の公式記録に登場している。
二 阿波局の乳母任命と全成の地位
通説では、阿波局が実朝の乳母に任命されたのは、彼女が北条氏(時政の娘)であり、政子の妹であったからと説明される。すなわち乳母任命の根拠は、妻の実家である北条氏の力にあったとされてきた。
しかし『箱根神社大系』の記述は別の構造を示している。妻が「阿野上総妻室」と記録されているということは、乳母任命の文脈において、妻の所属が阿野家として把握されていたということである。実家ではなく、夫の家として記録されている。
これが意味するのは、乳母の選定が妻の実家(北条氏)の力だけでなく、夫・全成自身の御家人としての地位も根拠になっていたということである。乳母父——乳母の夫——は、将軍の養育に直接関わる重要な政治的地位である。その地位に就く人物の家格・実力は、乳母任命の選定基準となる。
全成が御家人「阿野上総介」として明確な地位を持っていたからこそ、その妻が将軍家の乳母に任じられた。これは従来の研究では十分に注目されてこなかった点である。
三 阿野荘——東海道の要衝と兵站基地
全成が御家人として明確な地位を持ちえた背景には、阿野荘という具体的な所領基盤がある。
阿野荘(現在の沼津市・長泉町)は、東海道が富士山の裾野を通る要所に位置する。西国から鎌倉へ向かう軍勢・物資・情報は、すべてこの地を通過しなければならない。逆に言えば、阿野荘を握る者は、鎌倉の西の喉元を押さえていることになる。
阿野荘の経済的・軍事的価値は、東海道の交通を掌握する地理的条件にとどまらない。阿野荘の北方に広がる愛鷹山麓は、古代から馬の生産・管理が行われてきた地域である。中世武家社会において、馬は軍事力の根幹である。愛鷹山麓の馬を握ることは、そのまま軍事力を握ることを意味した。
建久四年(1193年)、頼朝は富士の巻狩りで大規模な軍事演習を行った。数千の人馬を駿河に展開するには、馬の供給、兵糧の調達、宿営地の確保が不可欠である。その兵站を支えたのが、愛鷹山麓の馬と、東海道沿いに広がる阿野荘であった。富士の巻狩りという幕府の最大級の軍事行事が、全成の所領基盤の上で実施されたという事実は、全成が幕府の軍事インフラの中核に位置していたことを示している。
1180年の頼朝挙兵もまた、この阿野荘の存在を背景として可能になった。挙兵は単に旗印を立てるだけでは成立しない。兵を動員し、馬を供給し、兵糧を確保する実務基盤が必要である。全成は走湯権現の座主としての宗教的権威に加え、阿野荘という世俗的・軍事的基盤をも握っていた。挙兵を可能にする実務能力のすべてが、全成の手の中にあった。
すなわち全成は、宗教者であると同時に、東海道の交通を掌握し、軍馬の供給地を握り、兵站を支配する有力な地頭・荘園領主であった。「阿野上総介」という官職名で記録されるにふさわしい、世俗的な実力を備えていた。
四 乳母父としての全成の政治的位置
阿波局が実朝の乳母であったということは、全成が実朝の乳母父であったということを意味する。
中世の武家社会において、乳母父は単なる名誉職ではない。乳母父は将軍の幼少期から日常的に接し、将軍と血縁同様の絆を結ぶ存在である。将軍が成長した後も、乳母父は最も信頼できる側近として、政治的に重要な地位を占めた。
頼朝の長男・頼家の乳母父であった比企能員が、頼家の外戚として権力を握ろうとした事実を想起すれば、乳母父の政治的重みは明らかである。比企能員は頼家政権の中核に位置し、北条氏と並ぶ権力を持つに至った。
阿波局が実朝の乳母であった以上、全成もまた、実朝政権における乳母父として同等の政治的位置を占めていた。実朝が将軍位を継ぐ可能性が現実化すれば、全成は実朝政権の中核に立つことになる。
ここに、宗教的地位(走湯権現座主)と政治的地位(御家人・乳母父)の二重の権力が、阿野全成という一人の人物に集中していた構造が見える。
五 1203年——比企氏との抗争
建仁三年(1203年)、全成は「呪詛」の罪で捕縛され、配流の後に誅殺された。この事件は、単独の宗教的事件として理解されることが多いが、実際には頼家政権末期の権力闘争の中で起こった政治的粛清である。
1203年の時点で、頼朝はすでに死去(1199年)し、二代将軍頼家が病に伏していた。次の将軍をめぐる権力闘争が始まっていた。比企能員は頼家の乳母父として、頼家の子・一幡を次の将軍に擁立しようとしていた。一方、全成は北条時政と結託して、頼家の弟・実朝の擁立を図っていた。阿波局が実朝の乳母であったことは、全成・北条陣営が実朝を押さえていたことを意味する。
比企能員にとって、全成は最大の政敵であった。実朝の乳母父であり、走湯権現の座主であり、御家人として幕府の中枢に位置する全成は、政治的に比企能員と並び立つ存在であった。比企能員が全成を「呪詛」の罪で告発させたのは、最大の政敵を排除するための手段であった。
『吾妻鏡』によれば、全成の捕縛は比企時員(能員の息子)が政子への使者として逮捕を報告し、さらに妻の阿波局の身柄引き渡しを要求するという形で行われた。比企一族が使者役を務めていること自体、比企能員が主体的にこの粛清を動かしていたことを示している。
六 政子の対応——阿波局を守った理由
政子は阿波局の身柄引き渡しを断固として拒否し、彼女を守り抜いた。
通説では、これは政子が「妹を守った」と説明される。しかし阿波局は、単なる政子の妹ではなかった。阿波局は実朝の乳母であり、北条氏の次世代——実朝政権——の正統性に直結する人物である。実朝の乳母を比企氏に引き渡すことは、北条氏の政治的基盤を比企氏に明け渡すことを意味した。
政子が阿波局を守ったのは、妹を守ったからではない。実朝の乳母を守ったからである。これは政治的判断であった。
そしてここに、全成の実力が逆説的に証明されている。比企能員がわざわざ呪詛の告発までして全成を排除する必要があったのは、全成が受動的な僧侶などではなく、実朝の乳母父・走湯権現の座主・御家人として、幕府の権力構造に深く食い込んでいた実力ある政治的プレイヤーだったからにほかならない。
七 全成誅殺の意味
全成は配流先で誅殺された。その死の五か月後、比企能員自身も北条氏によって滅ぼされる(比企氏の乱)。比企能員の擁立しようとした一幡も殺害された。
源氏将軍家の継承をめぐる権力闘争の中で、全成と比企能員という二人の有力な乳母父が、相次いで消えた。残ったのは北条氏である。実朝が三代将軍として擁立されるが、その後見役として実権を握ったのは北条時政・義時であった。
全成の死は、単なる宗教者の排除ではない。実朝政権の正統な後見人であったはずの人物が、実朝即位の直前に消されたのである。これによって、実朝の宗教的・政治的な後ろ盾を握っていた人物が、実朝即位の場面に立ち会えなかった。北条氏は全成という後見人を排除した上で、自らが実朝の後見人として実権を握る構造を作った。
頼朝が1199年に死去した後、源氏一門の血を引く兄弟で存命だったのは全成のみであった。全成の死によって、源頼朝の直系兄弟は全員死亡したことになる。源氏を消し、比企を消し——北条氏だけが残った。
八 1219年——時元の挙兵と藤原頼経の擁立
1219年1月27日、三代将軍・源実朝が暗殺され、源氏将軍の血統が断絶した。義時と政子がとった行動は、京都の九条家から三寅(みとら、わずか2歳の幼児)を鎌倉に迎えることだった。のちの藤原頼経、摂家将軍である。
そしてその直後、阿野時元——全成と阿波局の子——が挙兵し、わずか11日で鎮圧されて自害した(2月22日)。
時元の挙兵は、源氏の血を引く者として、また全成の旧勢力を背景にする者として、北条氏にとって脅威であった。義時は政子の命を受けて金窪行親らを派遣し、迅速に鎮圧した。
時元の挙兵から鎮圧までのわずか11日間の早さは、北条氏が時元の存在を最初から脅威として認識し、警戒していたことを示している。全成の遺子が、阿野荘という基盤と源氏の血を持つ者として、いつ立ち上がってもおかしくないと、北条氏は理解していた。
九 1227年——阿波局の死と泰時の服喪
1227年、阿波局が死去した。北条泰時は30日間の喪に服した。
『吾妻鏡』はこの服喪を「叔母」への喪と記す。鎌倉時代の喪の慣例において、叔母に対する30日間の服喪は異例に長い。阿波局は実朝の乳母として、また北条氏の有力な女性として、幕府の中枢に長く位置した人物である。泰時の服喪は、この女性の政治的・宗教的な重みを反映していると考えられる。
阿波局が死去した同じ年、泰時は阿波守護・小笠原長経に命じて、阿波国に土御門上皇の御所を造営させている。土御門上皇は承久の乱(1221年)の後、自ら申し出て土佐に流され、1223年に阿波に移されていた。母の死と、阿波への厚遇が同じ年に重なる。
これらの事実は、阿波局という人物が、単なる「政子の妹」ではなく、北条氏と幕府にとって重要な存在であったことを示している。
結語
阿野全成は、宗教者であると同時に御家人「阿野上総介」であった。東海道の要衝である阿野荘を握り、愛鷹山麓の軍馬の供給地を支配し、富士の巻狩りに代表される幕府の軍事行事の兵站を支えた。妻・阿波局は実朝の乳母であり、全成自身は実朝の乳母父として政治的中枢にあった。1203年の誅殺は、宗教者の排除ではなく、実朝政権の正統な後見人の粛清であった。
『吾妻鏡』はこの政治的人物としての全成像をも消去した。「悪禅師」「呪詛」という宗教的なラベリングによって、全成の死は宗教的事件として記録された。御家人「阿野上総介」としての全成、阿野荘という世俗的基盤、実朝の乳母父としての全成は、史料の表面からは見えにくくなった。
しかし『箱根神社大系』には「阿野上総妻室」という記録が残った。御家人としての全成の地位は、こうして部分的に残存する記録から復元される。
宗教的支配(走湯権現座主・頼朝政子の灌頂の師)と政治的地位(御家人・阿野荘領主・実朝の乳母父)の二重の権力が、阿野全成という一人の人物に集中していた——この事実こそが、北条氏が全成を消去しなければならなかった理由である。