渡邉 朱鷺
第七篇

嘉永四年・大泉寺墓所整備

家伝の継承の最終的姿
五十嵐こと 初稿 2026年5月1日

はじめに

本稿は、原宿渡邉家連作の最終篇として、嘉永四年(一八五一)の大泉寺墓所整備を中心に、家伝の継承の最終的姿を論じる。そして、連作Ⅱ全篇を通じて積み上げられた論証を総合し、結論を示す。

嘉永四年——徳川幕府の動揺が深まり、近代の足音が聞こえる時期である。本陣・問屋・牧士という近世的な役職の制度的基盤が、根底から揺らぎ始めた時代である。この時期に、本家・次男系の当主・平左衛門致英は、阿野全成・時元父子の六五〇年忌として、沼津市井出の大泉寺の墓所を整備した。

家がいまだ栄えていた時代に行われたのではなく、家の力が衰え、近代の足音が聞こえる中で行われたこの墓所整備こそが、家伝が真実として家の中に継承されてきたことを最も鮮明に証する事実である。

一 嘉永四年(一八五一)という時代

嘉永四年は、近世日本の終わりが目前に迫った時期である。

その前年の嘉永三年(一八五〇)には、清国でアヘン戦争の余波が続いていた。翌嘉永六年(一八五三)には、ペリーの黒船が浦賀に来航する。日本は外圧と内乱の時代に突入していった。

近世の社会秩序——幕藩体制、家制度、宿駅制度、本陣・問屋制度——は、すべて根本から揺らぎつつあった。武士階級の窮乏、商人の台頭、農村の崩壊、思想の沸騰。世は明らかに一つの時代の終わりを迎えていた。

原宿渡邉家もまた、近世という時代を支えてきた多くの家と同じく、衰えの兆しを見せつつあった。本陣・問屋としての収入は減少し、街道の交通量も時代の変化とともに揺らぎを見せ始めていた。第二篇・第三篇で論じたように、幕末になり大名の財政が窮迫すると、本陣に宿泊する大名の数はさらに減少していった。

明治四年(一八七一)には、宿駅制度そのものが廃止された。本陣・問屋・牧士は、その制度的基盤を失う。すなわち、嘉永四年の時点で、本陣家としての原宿渡邉家には、あと二十年の時間しか残されていなかった。

二 平左衛門致英という人物

嘉永四年に墓所整備を行った当主・平左衛門致英は、本家・次男系(平左衛門系)の当主である。父・陸英から本陣を継ぎ、本陣・問屋・牧士筆頭を兼ねた人物である。

致英は、文化年間に父・陸英から本陣を継承した。天保期から長く牧士筆頭を務め、本陣・問屋を担いながら、愛鷹牧の管理にも関わった。文人としても活動した。

明治四年(一八七一)、致英は幕府の与力となって江戸で没している。徳川幕府の崩壊と運命をともにした最後の代の当主であった。彼の生涯は、近世の終焉そのものと重なる。

嘉永四年、致英は本陣・問屋・牧士という近世的な公務を担いながら、家伝の継承という別の責務を担った。これは、家督上の本家の当主として、家全体を代表して祖先への責務を果たした行為である。

三 大泉寺と阿野全成・時元父子の墓

墓所整備が行われたのは、現在の沼津市井出の大泉寺である。曹洞宗の寺院である。

大泉寺は、阿野全成・時元父子の墓所として古くから知られていた寺院である。両父子の墓は、大泉寺の境内に並んで残る。寺は、阿野荘の地に建てられた寺の中にあり、阿野全成の支配地と地理的に重なる。

阿野全成は建仁三年(一二〇三)に北条義時に討たれた。子の時元は建保七年(一二一九)に阿野荘で旗を上げ、北条氏に討たれた。両者は、いずれもこの地で生涯を閉じ、この地に葬られた。

嘉永四年(一八五一)は、阿野全成誅殺(一二〇三年)から六四八年、時元の死(一二一九年)から六三二年にあたる。これを「六五〇年忌」として、致英らは大泉寺の墓所を整備した。

重要な事実として、致英が整備したのはすでに存在していたこの墓所であった。新たに墓を作ったのではない。継承されてきた墓所を、整備したのである。

これは示唆的である。新たに墓を作るなら、家伝の創出を疑うことができる。しかし、整備したのは既に存在していた墓所であった。すなわち、阿野全成・時元父子の墓所が、原宿渡邉家にとって長く意識されてきた場所であったことを示している。

四 六五〇年忌墓所整備の事実

嘉永四年の墓所整備の事実は、沼津市明治史料館編『史料目録15 原 渡辺家文書目録』(平成五年)の解題に明記されている。同解題によれば、

渡邉家は源頼朝の弟阿野全成の子孫であると称する原宿きっての旧家である。現在沼津市井出の大泉寺にある阿野全成・時元父子の墓は、嘉永四年(一八五一)の六五〇年忌に際し、渡邉家の当主平左衛門致英らによって整備されたものであり、近世において同家が自らの家系を誇りにしていたことが知られる。

また、沼津市は、旧東海道原宿の本陣跡に石標を設置し、渡邉家が阿野全成の子孫であると公的に記している。これは、地方公共団体の公式の認識として、渡邉家と阿野全成の関係を肯定的に位置づけているものである。

五 なぜ嘉永四年だったのか

ここで、一つの問いを立てる。なぜ、嘉永四年に墓所整備が行われたのか

家伝を権威づけに使う家であれば、もっと早い時期に——たとえば家が最も栄えていた時期に、家の権威を最大化するために——墓所を整備していたはずである。元禄期、享保期、宝暦期、寛政期——本陣家として最盛期にあった時代に、家伝を顕彰する機会はいくらでもあった。

しかし、それは行われなかった。墓所整備が行われたのは、嘉永四年——家の力が衰え、近代の足音が聞こえる、近世の終わりが近づいた時期であった。

この時間的選択には、深い意味がある。

家が最も衰えた時に、なぜ祖先の墓を整備したのか

通常の論理では理解しがたい。家が衰えたなら、墓所整備のような大事業を行う余力もないはずである。むしろ、家の存続そのものに精力を傾けるべき時期である。それでも墓所を整備したというのは、当主・致英の中に、別の判断があったということである。

その判断とは何であったか。本稿は、これを次のように読み解く。

致英は、家がやがて失われることを予感していた

近世という時代が終わる予感、本陣・問屋・牧士という家業が消える予感、武家社会そのものが揺らぐ予感——これらが致英の意識の中にあった。家は永遠ではない。本陣の格も、問屋の役職も、牧士の権限も、いずれは失われる。

しかし、祖先の墓は、家とは別の論理で続いてゆく。寺院という制度は、家制度と独立している。寺の境内にある墓は、家が衰えても、家がなくなっても、寺が続くかぎり守られる。

致英の判断は、こうであった——家がどうなろうとも、祖先の墓だけは後世に残せるようにしておこう。家伝を「使う」ためではない。家伝を残すためである。

六 二系統の家にとっての共通の祖先

墓所整備を行った致英は、本家・次男系(平左衛門系)の当主であった。しかし、整備された墓は、阿野全成・時元という、両系統に共通する祖先の墓である。

分家・長男系(八郎左衛門系)にとっても、阿野全成は祖先である。むしろ、血統上の直系は長男系である。家督上の本家の当主が、家全体を代表して、両系統に共通する祖先の墓を整備したのが、嘉永四年の事業であった。

近世初頭の長男分家以来、二系統に分かれていた渡邉家が、共通の祖先への責務という一点において、一体性を保っていたことが、ここから読み取れる。家督が分かれても、血統が分かれても、祖先・阿野全成への思いは家全体の共通の根として継承されていた。

致英の墓所整備は、本家としての責務であり、家全体としての責務であった。

七 明治史料館蔵「原渡辺家略系図」

致英の墓所整備とほぼ同じ時期、あるいはその継承の中で、家系図もまた家の中で守られ続けた。

沼津市明治史料館所蔵の「原渡辺家略系図」(『史料目録15 原 渡辺家文書目録』所収)には、源義朝・頼朝・範頼・阿野全成・義経・時元・北条時政・政子の名が記されている。家の中で代々継承されてきたこの系図は、家の自己認識を示す根本史料である。

この系図がいつ作成されたかは、現時点では確定していない。しかし、近世から近代へと家の中で継承されてきた記録であることは間違いない。

致英による墓所整備と、家系図の継承——この二つは別の事象であるが、家伝が文書(系図)と物的記念物(墓所)の両方で守られてきたことを示している。家伝は単なる口伝ではなく、文書と物の両方によって支えられていた。

八 二系統が史料を継承し続けた

原宿渡邉家の二系統は、近世から近代を経て現代まで、それぞれが文書群を継承し続けた。

分家・長男系(八郎左衛門系)は、原浦の漁業権を持つ津元として、また昌源寺の檀越として、独立した活動を展開しながら、約一千五百五十五点の文書を保管した。これは、後年に静岡県立中央図書館に寄贈されることになる。

本家・次男系(平左衛門系)は、本陣・問屋・牧士として街道経営の中核を担いながら、約一千六百六十三点の文書を保管した。これは、後年に沼津市明治史料館に寄贈されることになる。

両系統が並行して家伝文書を守り続けた結果、現代において合計約三千二百点の史料が伝わっている。これは、家としての継承の意志が、二系統それぞれにおいて確実に働き続けたことを示す。

両系統がそれぞれ別々の機関に文書を寄贈したという経緯も興味深い。家督が分かれた二つの系統が、それぞれ独立して文書を守り続け、それぞれの判断で公的機関に寄贈した。家全体としての文書管理の伝統が、二系統を通じて貫かれていた。

九 結論——複数の状況証拠の総合

連作Ⅱ全篇を通じて積み上げられた論証を、ここで総合する。

第一に、戦国期に文書を残せた家の稀少性(第一篇)。天文十七年今川朱印状写・天正六年武田家朱印状写を、家自身が継承して現代まで残してきた。戦国期の地方の家でこれを実現できた例は極めて稀である。

第二に、徳川家康による異例の認知(第一篇)。元和元年のお万の方来訪と日蓮宗寺院創建の勧めは、徳川家がこの家を源頼朝の弟の系譜を担う家として認知していた可能性を示唆する。

第三に、長男分家という異例の家督継承(第一篇)。日蓮宗弘布のために長男が分家し、家名と漁業権を持って分家、本陣を弟に譲るという判断は、家としての強い精神的伝統があったからこそ可能であった。

第四に、約二百五十年にわたる本陣・問屋・牧士の継承(第二・三・四篇)。三千二百点の文書群が、家の活動の連続性と多面性を記録している。

第五に、原浦の津元としての海に向いた活動(第五篇)。本家が街道、分家が海——という二方向の活動を一つの家系が並行して展開した。

第六に、地域の宗教的中心としての役割(第六篇)。昌源寺の経営、富士講の伝授拠点、白隠禅師との地縁。これらは、家としての宗教的伝統の表れである。

第七に、嘉永四年の大泉寺墓所整備(本篇)。家の力が衰える中で、祖先の墓を後世に残すための整備。家伝が「使う」ためではなく「残す」ためのものであった証。

第八に、二系統が並行して家伝文書を継承してきた事実。総数三千二百点が、現代まで伝わっている。

これら複数の状況証拠を総合すれば、家伝が捏造された自称ではなく、家の中に静かに継承されてきた真実であった可能性は、十分に高いと言える。

直接の系譜接続を一次史料で立証することはできない。鎌倉期の阿野全成・時元から戦国期の渡邉八郎左衛門までの約三百三十年の系譜的空白は、依然として埋まらない。しかし、戦国期に文書を残せた家の稀少性、徳川家による異例の認知、長男分家という異例の判断、約二百五十年の活動の多面性、そして衰退期の墓所整備——これらは、捏造された家伝では説明しがたい事実の連なりである。

結語

阿野全成は『吾妻鏡』が消した男であった。鎌倉幕府の創業を支えた頼朝・政子の灌頂の師でありながら、後世の記録から体系的に消去された人物である(連作Ⅰ)。

その子孫を称してきた家は、戦国期から幕末まで、原宿の地で連続して活動を続けてきた。戦国大名から認知され、徳川家から異例の処遇を受け、本陣・問屋・牧士・津元・寺院檀越・文人——これらすべてを兼ねる稀有な家として、近世社会を支えた。そして、家の力が衰える最後にこそ、祖先の墓を後世に残した。

阿野全成の系譜を継ぐ家として、原宿渡邉家は、八百年の時を超えて存在してきた。その存在の蓋然性、家伝の真実性は、複数の状況証拠の総合によって支えられる。残された史料は約三千二百点に及ぶ。それらは、祖先と子孫を結ぶ、目に見える証として、今も伝わっている。

参考文献

・沼津市明治史料館『史料目録15 原 渡辺家文書目録』平成五年(一九九三)、解題
・沼津市明治史料館蔵「原渡辺家略系図」
・大泉寺(曹洞宗、沼津市井出)阿野全成・時元父子墓
・沼津市設置「東海道原宿 本陣跡」石標(静岡県沼津市原)
・沼津市史 史料編 近世2(町宿・文化)
・静岡県立中央図書館蔵『駿河国駿東郡原宿渡辺家文書』
・静岡県立中央図書館『古文書目録』昭和五十六年(一九八一)十一月、解題
・平凡社『日本歴史地名大系 第二二巻 静岡県の地名』二〇〇〇年

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